今回のインタビューは日本画家の植田浩さんからのご紹介で、ガラス工芸作家の新實広記さんに作家になったきっかけや、作品制作などについて伺いました。
-ガラス工芸という分野を選んだ経緯について教えてください。
愛知教育大学で工芸を学ぶ過程で、ガラス工芸と出会いました。1、2年生で金工や陶芸、ガラス、漆などから自分のやりたい素材を選んでいくのですが、当初は陶芸と金工を専攻していました。
当時、マイケル・ロジャースというアメリカ人の先生がガラス工芸の担当でした。ある時、その先生の瀬戸市にあるアトリエに手伝いに行くことになりました。
ガラスの溶解炉や電気炉など、全部自分で制作しているスタイルや、近所の陶芸家さんたちが先生のアトリエに定期的に遊びに来て、バーべキューをしたり、交流をしている様子をみて、この先生と一緒に学生時代を過ごしたら、面白いだろうなと思い、ガラス専攻に途中から変更しました。
ただ、ガラス工芸に興味があって専攻したわけではなかったので、自分のやりたいこととのギャップにしばらく悩んでいました。
-今の作品のスタイルになったのはどのような経緯だったのでしょうか。
先ほども話したように、本当は陶芸とか金工をやりたかったのです。なぜかというと、土や金属は重く見えたり、力強く感じるのですが、ガラスはキラキラして、透き通り、重みがない感じがしていました。
学生の頃から彫刻を制作したいと思っていましたので、「彫刻は重く見えなければならない」という言葉を信じて、ガラスで彫刻制作を試行錯誤を重ねていました。
ただ、石や金属の素材を扱う作家さんの作品が横にあると、その大きさや重量感が自分には表現できないのが悩みでした。
そんな中、瀬戸の展覧会で、球体や円錐のような誰もが見たことのある幾何形態をガラスにし、作家特有の造形を見せるのではなく、ガラスの素材が光る魅力を見せられるようにと制作した作品を発表しました。
その作品を見たある作家さんの「ガラスは、重力を感じなくて良いなあ~」という一言で、重く見せる必要はなく、他の素材にない存在感を自分の表現として見せればいいのだ、と意識が変わりました。
-作品はどのように制作されているのでしょうか。
よく陶芸で使用されている、電気炉を使っています。熱に強い耐火石膏を型として、ビレットという半球状のガラスを詰めて、電気炉で焼成します。
温度をゆっくり上げて、ガラスを型に溶かし込んだ後、1ヶ月くらいかけてゆっくり冷まします。常に中も外も同じ温度にして冷まさないと割れてしまうので。
その後、石の加工で使用する機械で表面を磨きます。
これまでに制作した重さが600キロを超える大きな作品だと、その分焼成から徐冷までに時間がかかるので、ガラスの大きな塊を購入して加工することもあります。
-作家活動以外ではどのようなことをされていますか。
小学校に出向いて、学校美術館というのを仲間とやっています。子どもたちに風船をガラスにみたてて、ガラスの吹き方を見せたり、ガラスの原料の砂を見せたりしています。
その子ども達へのアンケートの回答で、「(作家が)普通のおじさんだった」というのがありました。
アーティストはベレー帽をかぶっていたり、髭をたくわえていたりといういわゆる「芸術家」というイメージがあったのだと思います。
学校美術館で、逆にアートを身近に感じてもらえたと思いました。将来、子どもたちが作品を作って生きていくということを一つの選択肢として考えられると感じています。
-豊田で今も作品を発表している理由はありますか。
学生の頃から、小林美術研究所の先生や先輩が声をかけてくださり豊田で発表する機会がありました。
そこでたくさんの地元の作家さんと出会うことができました。
身近に制作を続けている先輩方がいたせいか、作家として活動を続けていくことがすごく特別なことではないと感じています。
また、自分の生まれた町からの依頼だったら、これまでお世話になった地元の人が見てくれるというのもあり、やりたいと思っています。
-今後はどういった活動をしていきたいですか。
建築関係の方からのお仕事だったり、家具屋さんから家具とアートを一緒に飾りたいというお話があったりし、制作をしています。
ジャンルを超えていろんな人とつながって、一緒にやることが面白いので、これからもやりたいと思います。
また、金沢市の国立工芸館で、3月から始まるポケモンと工芸のコラボレーションの展覧会に招聘されています。
ポケモンはあまり知らなかったのですが、自分の分野外だと思っている世界とつながって制作することで新しい何かが生まれるのではないか、と思います。
-新しいジャンルとの出会いによって新しい作品がまた生み出されるのが楽しみです。
豊田市のお気に入りの場所
豊田市美術館です。豊田市美術館がなければ、学生の頃からこんなに世界の美術が見られなかったです。
豊田市美術館が開館したときは、僕のためにつくってくれたのだと思うほどでした。
また、豊田市美術館の場所に以前あった、童子山小学校の出身というのもあります。
現在、レストランや展示室の途中で豊田市街が一望できるところがありますよね。
そこは小学校のころ見た景色と変わらないのです。
取材:植村優子(TAP magazine 編集部)
あいちトリエンナーレのボランティア参加をきっかけに、現代アートの沼にはまりました。
あいちだけでは飽き足らず、全国の芸術祭から、海外の芸術祭まで見に行くようになりました。
全国の芸術祭サポーターと交流する「全国芸術祭サポーターズミーティング」に参加し、アート仲間をますます増やしています。