REPORT/COLUMN
挙母ブルー|秋分(9月23日・黄経180度)
伊藤正人

 歩き疲れて立ち止まるように、からっぽになっていた。
 展覧会の会場や作業場として使っていた川べりの古い家が老朽化で取り壊され、行きつけになりかけていた近所の中華料理屋が閉店し、観念的な意味あいにおいてじぶんの通っていた大学がなくなった。それまですぐちかくにあると思い込んでいたものがある日を境にからっぽになる。抗いようもないむなしさを越えてからっぽになったところへ青い影がしんと音もなく伸びてくる。温度のない水が刺すように凍みる。
 20代のころ、コーヒー1杯で湧き出る言葉をノートに書きつけていた洞窟のようなカフェもすでにない。友人と食事をしながら多くの時間を過ごした店もなくなった。飲食をともなう記憶は強く残るのか。ひとは生きるためのエネルギーを口から摂取すると同時に、咀嚼しながら緘黙し、とりとめのない記憶をつみかさねていく。
 あたらしい居場所を探してみてもなかなか簡単にはみつからない。からっぽになったところへ代わりになるものをあてがおうとしてしまっている時点できもちは斜めを向いている。過去の記憶のここちよさに囚われ、現在を見渡す視野はますます狭い。

    *

 数年まえ、図書館で調べものをしたあとに立ち寄った喜多町の「かわしん」はあらかじめ検索したなかで目星をつけていったのか、たまたまみつけてふらっと入ったのか忘れてしまった。喫煙可能だったのがありがたい。なんと150年という歴史のあるお店らしいけれど、商業ビルの1階に入っているためか古さを感じない。鄙びた昭和というより平成にさしかかったくらいの懐かしさのある店内で昼間からビールを飲み、ハヤシライスを食べた。
 そういえば平戸橋町の民芸の森にある海老名三平さんの家も150年だった。「かわしん」も三平さんの家もおなじ時間の流れのなかで移築や移転を経て、きっとだれの心もからっぽにさせることなく、かつて挙母だったころから風景でありつづけてきた。「かわしん」はまた行ってみてもいいかもしれない。こんどはビールといっしょにお好み焼きをいただきたい。

    *

 なくなることとあらわれることはほぼ半分ずつ、表裏として、昼と夜のように存在する。インクが紙や壁に染み込んで言葉になっていくプロセスの裏側で、インク壜は枯れ井戸のようにからっぽになっていく。あるいは飲み干してからっぽになったグラスの底にかがやく黄金色の残滓をうらめしそうにみやり、酒がなくなったということがそこにあらわれる。
 歩き疲れて立ち止まるように書きだして、じぶんの身のまわりを風景化する。と同時に、書くことによってふわりときえてしまう青々しい感触もつねにある。

伊藤正人

1983年愛知県豊田市出生、名古屋市出身。
美術作家の活動と並行して小説やエッセイの執筆、自主発行を行う。
主な展覧会に、「小説の美術」AIN SOPH DISPATCH(2022)、「常設企画展 ポジション2014 伊藤正人 – 水性であること」名古屋市美術館(2014)など。
主な著作に、「サンルームのひとびと/note house」note house(2020)、「仲田の海」大あいちなるへそ新聞(2016)など。
作家ウェブサイトはこちら

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