REPORT/COLUMN
挙母ブルー|立冬(11月7日・黄経225度)
伊藤正人

 暗闇のなかをすり抜けていく地下鉄が名鉄に接続して地上へ出ると、光が羽ばたくようにひらけていった。
 日進、東郷の見慣れない風景と駅名を追っていく。ぽつんぽつんと風景のうえに水滴を落としたような溜め池と、その周辺に緑のゆらぎがつづいていく。郊外の風景をぼんやり見送っていると1時間ばかりの道程がずいぶん間延びしたように感じられる。遠くに来たと思った。
 ありがとう。車で来たん?
 美術館のギャラリーで展覧会をしていた先生は言った。
 いえ、電車です。
 ここには車で訪れるのが一般的なのだろうか。電車の乗り継ぎのことを考えるとたしかに車のほうが便利かもしれない。でも、そのときはまだ免許を持っていなかったのである。版画のグループ展だったと思う。先生には申し訳ないけれど、展示の内容よりなぜか先生のその何気ない一言のほうが印象に残っている。はじめての豊田市美術館だった。それはまた、はじめてみずからの意思によって赴いた豊田でもあった。
 以来、豊田へいく用事のほとんどが美術館で、車に乗るようになるまでは電車を使っていた。そしてあるときなにを思ったのか、美術館以外の目的で、作品と称して名古屋から豊田まで歩いたことがあった。
 
    *
 
 展覧会の会場に「旅に出ます」といったような書き置きを展示して、そこから実家のある千種、かつて住んでいた名城まで歩いていき、うまれ故郷の豊田をめざした。豊田に着いたら来た道を引き返して展覧会場へ帰ってくる、つまりじぶんのいまいるところから過去をたどり、そこから現在へもどるというコンセプトである。
 秋というより、冬の匂いが近づいていた。
 千種や名城までは勝手知ったる道なので難なく歩くことができた。そこから豊田までは道路地図をたよりに飯田街道の153号線ルートを延々と歩いた。いまのように手のひらにおさまるモノリスがない時代である。途中でバイパスを迂回して道に迷ったりしつつも、案外歩けるもので出発した日の夜遅くには豊田に着いた。駅前で野宿しようかと思ったのだけれど、だぶついたジャージ姿のヤンキー少女に「なにしてるんですかぁ」と声をかけられて怖気づいた。宿もなく、ほかにめぼしい寝床を探し歩く元気もなかったので24時間営業のファミリーレストランで夜を明かした。
 翌朝、疲労が溜まったままの足を引きずって平芝町の生家をたずねた。母からきいていた住所を地図でたしかめ、坂道をのぼっていく。
 平芝の家は空き家になっていた。それはそれで都合がよかった。これっぽっちもおぼえていない記憶がよみがえらないものかと家の周囲をぐるぐるとまわった。このまま家のすがただけを見て道を引き返すというのもやるせないけれど、それが現実であり、記憶の限界だった。そのとき、たまたま向かいの家から出てきたおばさんのすがたが目にとまり、おそるおそる話しかけた。おばさんは訝しんだ顔を浮かべたがまもなく記憶の泉にふれたように表情をゆるめていった。平芝の家に住んでいた当時は赤ん坊だったじぶんのことをおぼえていてくれたのである。こころよく招いてくれた玄関先でお茶とお菓子をごちそうになりながら話をしていると、ちょっとのぞいてみる? とおばさんが生家の庭先に案内してくれた。
 2歳までの記憶はやはりよみがえらない。昔のアルバムをみてなんとなく知っているような気になっていただけである。実際にその庭に立ってみると想像以上に広くて、暗闇を抜けて地上へ出たときの地下鉄とおなじように光がぱあっとひらけていった。濡れ縁に腰を下ろすといつまでもそこに座っていたいようなあたたかみがあった。そこがじぶんの故郷であり、虚構だった。
 
    *
 
 いまからちょうど20年まえのことである。
 学生だった当時と現在とでは作風はずいぶん変わったけれど、じぶんというひとりの人間による営為であるのだからその内実はちっとも変わっていないような気もする。この20年のあいだであきらかに変わったというべきか、すこしはおとなになったと言える点は、じぶんにとっての正しさを測る言葉をおぼえて、ときには黙ることもおぼえ、たまたま手にした万年筆とロイヤルブルーのインクにそれを託してきたことである。
 インク壜の傾きは過去という虚構へ暮れていくための傾斜でもあった。あるいは過去を補正しながら否応なく未来へ傾くための青々しさを、いつも所在無げで名称未設定だったこの現在を挙母ブルーと名付けることにした。

伊藤正人

美術作家の活動と並行して小説やエッセイの執筆、自主発行を行う。
主な展覧会に、「小説の美術」AIN SOPH DISPATCH(2022)、「常設企画展 ポジション2014 伊藤正人 – 水性であること」名古屋市美術館(2014)など。
主な著作に、「サンルームのひとびと/note house」note house(2020)、「仲田の海」大あいちなるへそ新聞(2016)など。
作家ウェブサイトはこちら

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