REPORT/COLUMN
挙母ブルー|立秋(8月7日・黄経135度)
伊藤 正人

 インク壜のふたを開けると直径23ミリのまるい口にロイヤルブルーの泉が湧いている。たっぷりと光を吸い込んだ真夏の茄子のように深い青味をたたえたその水面をのぞきこむと、さざ波も湧きあがる泡も一切ないのにさわさわと、ときにざわざわと心がふるえている。
 焚きつけた炎に魅せられ、そこへ身を投じてしまうゆらぎの虜、とまではいかないけれど、その水面に万年筆のペン先を差してインクをそっと充填する行為は一種の宗教的な儀式のようでもある。平筆を水面に差してインクを染み込ませる際は、万年筆よりもプリミティブな感じで野趣がある。あるとき、禁忌を犯すみたいにおそるおそるゆびさきを浸してみると、思いのほかひんやりした。やはりこんな夏の盛りのころだった。粒子が細かいためか、皺や指紋のすきまに入り込んだインクは水で洗ってもなかなか落ちない。
 インクはペン先または筆先からつたわって紙に染み込むその一瞬がもっともきれいに発色する。しかし、インクが乾き、文字となり、作品となって定着してしまうとまったくちがうものになっている。最初の瑞々しさは筆を手にしているじぶんひとりだけがみている光景であり、言葉にしてもつたえきれない、かぎりなく近づくことはできるかもしれないけれど、それは他者と共有できない私的な記憶と似た光である。
 ある日、何十年ぶりかに豊田の駅前を訪れた母はその風景の変わりように驚いた。豊田に住んでいた当時、そこにはまだ豊田そごうもなかったのだから、いまの豊田しか知らないじぶんにとってその変容がいかほどのものか計り知れない。昔はこうだった、という言葉はそのひとの過去の体験をもとにした風景であり、そうやって泉から汲みあげられた風景は時間とともに変色し、すこしずつ蒸発して、あるいはそれを言葉で補うことによって虚構になっていく。もしかしたらじぶんの出身地が豊田であるということも虚構と言ってさしつかえないのではないか、とさえ思えてくる。見知らぬ故郷の風景は虚構のなかでこそ生きつづける。
 
   *
 
 以前、汲みきれず壜の底に残ったインクの残滓を「閉じた世界のなかで消せようもなく残る自我であるのかもしれない」と評されたことがある。うんときつくふたを閉めたとしても、壜のなかの最後のインクはいつか乾いてきえてしまうかもしれない。日の角度と重ねあわせるように壜を傾け、言葉が揮発するのを待っているふしもある。

伊藤 正人

1983年愛知県豊田市出生、名古屋市出身。
美術作家の活動と並行して小説やエッセイの執筆、自主発行を行う。
主な展覧会に、「小説の美術」AIN SOPH DISPATCH(2022)、「常設企画展 ポジション2014 伊藤正人 – 水性であること」名古屋市美術館(2014)など。
主な著作に、「サンルームのひとびと/note house」note house(2020)、「仲田の海」大あいちなるへそ新聞(2016)など。
作家ウェブサイトはこちらから

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